岩城屋のルーツ
江戸時代〜大正時代、大分市稙田地域に造り酒屋がありました。(稙田酒造 銘柄:梅乃月)
三代目・吉右衛門の弟(文太平)が大分市竹中に移住して醤油屋を始めました。
ユワキヤ醤油が創業した江戸時代、当社関係者が長崎に出かけた時の土産と思われます。(嘉永4年当時、二宮尊徳が65歳、吉田松陰が21歳、坂本龍馬16歳)
安政元年(1854年)岩城屋創業。
初代文太平が大分市竹中の現在地で醤油醸造を開始、大野川の水運や馬車などを利用して近郊に醤油を販売していました。
1864年2月15日、幕府の命令で勝海舟が坂本龍馬を連れて、大分市佐賀関に上陸し、鶴崎、大南(判田)、野津原(今市)、久住、熊本を経由して長崎に到着。
同年、4月10日に再び大分市佐賀関(徳応寺宿泊)から、四国に戻ったと伝えられています。
明治大正ころの醤油とっくり
二十三銀行(現在の大分銀行の前身) 1877年(明治10年)~1927年(昭和2年) 大分銀行に調査依頼した結果『合札(あいふだ)だと思われます』 ということです。大分銀行にも残っていない希少品だそうです。
日清戦争祝勝の服装をしています。この翌年又市が急死して、家業は苦難の時期を迎えました。幼い善兵衛の後見人となった親族の一人が店の資金を全て持ち出してしまったのです。 尋常小学校を卒業した善兵衛少年は進学を断念して家業を継ぎました。地元の大嶋医院の初代先生より物心共の援助を頂き善兵衛少年は家業の再興に尽力しました。
善兵衛少年は近隣の町村はもちろん、自転車で行けるところは、どこまでも営業に出かけました。 たとえば、隣県の宮崎県高千穂(当社から約90km、県境の山深い道をたどってゆく最大標高差800mの険しい道程です) 先に鉄道貨車で醤油味噌を送り、本人は自転車で移動、数日かけて販売し、再び山道を自転車でとんぼ返りしました。 善兵衛少年は労を惜しまず、倹約に努め、一生懸命に商売を広げてゆきました。
高千穂には今もその時代からご愛顧頂いている老舗ホテルや個人のお客様がいらっしゃいます(感謝)
明治35年11月発行の当時の業界誌(ダイレクトメール)です。大分県関係の記事(大分県酒造組合連合会設立等々)が記載されています。
尚、大分県醤油組合は、明治38年に設立されました。
当社には四代目が二人います。一人は長男門脇正二(高校卒業後、徴兵され昭和19年21歳で戦死しました) もう一人は兄に代わり家業を継ぐことになった次男、門脇又二郎です。
1928年「ユワキヤ」
ユワキヤ醤油のロゴは昭和3年に商標登録されました。ユワキヤのロゴは上から見た樽の中に岩城屋の岩の文字をあしらっており、上下左右の突起は注ぎ口をイメージしております。このロゴが出来たことで、岩城屋からユワキヤ醤油とカタカナに変わったのではないかと推測されます。和紙に筆書きの商標登録願が時代を感じさせます。
昭和16年(1941年)10月1日、連日の豪雨で豊肥線 竹中駅付近の鉄橋の路肩が崩れ、豊肥線の蒸気機関車(8620型)が脱線し、機関車と客車二両が河原内川に転落。44名が死亡。72名が負傷した。(そのうち大分中学(現・大分上野丘高校)の生徒6名が死亡した。)当夜、ユワキヤ醤油の新座敷にて徹夜で保線員の取り調べが行われたそうです。
昭和18年(1943年)9月に、台風による増水により、竹中地区(上竹中・下竹中)の多くの住宅が流出した大水害が発生しました。当社も1階部分が水没したそうです。
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